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第六話 村長の娘

谷村志穂

 ガウンをまとった女たちの肌が、それぞれに、すぐそばにあった。
 こんがり灼けた碧子の真っ直ぐな脚、膝は丸く輝いている。
 反対側では、透けるように白い、槙の長い脚が、姿よく組まれていた。
「ねえ、どっち?」
 槙がもう一度、訊ねてきた。
「選ばないと、帰してあげない」
 碧子がそう言って、大きな目で見上げてくる。
「僕は、槙先生だね」
 道生が、開き直って答えると、
 しばらく間があり、二人が笑い出した。
「負けちゃった」
 と、碧子は肩をすくめる。
「道生ったら、いい奴」
 槙はそう言ってまた碧子と見合っている。
「ねえ、ちゃんと聞いて」
 カーリーヘアの槙からは、高価そうなシャンプーの香りが立つ。
「あのね、ここからが本題」
「なんですか、本題って。僕はもうちゃんと槙先生を選びましたからね。逃げないでくださいよ」
 自分なりには本気で言っているのに、まるで相手にされている気配がない。初めて会った時から、カーリーヘアで白いビキニの槙には、ググッと惹かれていたし、「また会おう」なんて、思わせぶりに言うから、余計に期待したのだが。
「悔しい、私」
 と、碧子は華奢な手で自分のグラスに白ワインを注ごうとしているので、ワインを注ぐくらいは男の仕事だと思い、皆のグラスに注ぎ入れた。

「ごめんね、からかうつもりじゃなかったんだけど、サウナという密室に男女が共存するのって、どうして難しいんだろうって、最近、よくそれを考えるようになったの」
 槙がワイングラスに口をつけながら、そう言った。かっこつけているわけでもないだろうに、かっこいい人であるのは確かだ。空になった彼女のワイングラスが揺れて、思わずお注ぎしましょう、という気持ちにさせられる。
「私はね、初めは、ただサウナを男たちから女たちへと取り返したかったの。もっと広く女たちの場にできたらと思った」
「まあ、先生方のご活躍もあって、そうなってきているようには見えますが」
 道生が、ビジネスマンらしく率直にそう言うと、
「だけど、気づいたんだけど、男と女は、基本的にサウナに求めていることが違うよね」
「と、言いますと?」
「堅いんだ、道生の話し方」
 碧子は、酒が強いのか弱いのか。いや、目つきを見ると、すでに酔っているようでもあるが、そう言ってからかってくる。碧子のグラスもまた空になり、こちらにも仕方なく注いでやる。
「サウナが急に増えて、広まって、この頃、実感していることがあるの。みんな、生真面目すぎ。全然自由じゃない。特に、男たちの方が、まあ細かい。サウナ室の温度だ、水風呂の温度だ、何回入るとか、ととのった、ととのえない、ととのいイップスだ、とかね」
「それで、何か?」と、もう一度口にしてしまい、「つまり、ですから?」と、道生は言い直した。普段、自分がいかに適当に相槌を打っているかに、こんなときに気づく。槙は、まるで構わず話してくる。
「コロナの影響もあるでしょうけれど、最近、人気のサウナは、サウナ室の前に並んで入るんでしょう? 裸で行列。で、ようやく入って、サウナ室の中でちょっと話しでもしたら、シーッと指を立てられる、とか」
 確かに、昔から地味にサウナ通いをしている道生たちには、そんな、ちょっと嬉しくない状況が続いている。
 サウナ室から水風呂の流れの後、再びサウナ室に戻るには、また並ばないといけないこともある。
「まあ、確かに、老舗も混んでますよ。サウナハットをかぶってくる若い子も多い。君もさ、はじめて会ったとき、ホテルの廊下でこんな大きなの、かぶっていたけど」
 と、碧子の夕顔みたいな帽子を手で象ってみせる。
「その帽子をね、水風呂に入る時は、サウナ室の外にかけていくんですよ。それでこの間は、新しく来た人が、備え付けだと思ってかぶろうとしたら、あの、それ僕のですって、なって」
 夕顔帽子の碧子が、澄んだ笑顔を浮かべ、吹き出す。彼女も思い出したように、話し始めた。
「私はこの間、ハリー・ポッター熱波っていうのを聞きましたよ。有料熱波を頼んだ人がいて、部屋を暗くして、ハリー・ポッターの音楽がかかるんですって。それで、熱波師は、その音楽に合わせて、マントのような布地で熱波を送る。そうなると、もうショーだよね」
 道生は自分も先日、有料でヴィヒタによるウィスキングを頼んだばかりだった。熱波も、ウィスキングも、その道のマスターが現れる。商魂逞しいと言えばそれまでだが、サウナのような暑い場所で精魂込めて届けてくれるマスターらのサービスに、ありがたい思いが募る。この国ならではの、心の通わせ方がサウナにも登場している。
 だが、何処もサービスがてんこ盛りになっていき、利用客もサービスを逃すものかとばかりに何かと下調べをしてから向かう。ちょっとしたディズニーランド状態になっている。
「熱波って、まあ、首が下がりますよね。ありがたすぎるくらいだ。まずみんなで熱波を浴びて、一人二人と耐えきれなくなって脱落していく。そうすると、最後に残った一人に、それでは最後はあなた様だけに捧げましょうと言って、強烈なひとあおぎをしてくれるところもありますよね」
 道生は、実は自分の相当好きな老舗サウナの習慣に、少し距離を設けて話す。そこでの、よくある話、つまりthere is thereは、あげていったらきりがない。馴染みの客になると、フロントで渡されるロッカーの番号は一桁になる。何がいいかと言うと、通路の構造上、ロッカーが少しだけ広い。みんなこの一桁が欲しい。黙って一桁を渡される客になりたい、という欲望を、いつしか抱くようになる。
「で、道生は、熱波だと最後まで残るタイプなんだ?」
 碧子に問いかけられて、素直に頷いてしまう。
「男の人たちは、何かにつけて我慢比べのつぼを押されちゃうのよね。女たちの楽しみ方とは、やっぱりちょっと違う」
「女性は、どう楽しむんですか?」
「やっぱり、実利なんだろうね。肌にいい、贅肉を落とすとか、最近だとホルモンバランスが良くなるから、妊娠しやすいなんて言っている人もいる」
 槙の話を聞きながら、道生はサウナに通う男である自分が、いかにも単純な動物であるように思えてきた。
「それで、僕に用件っていうのは、なんですか?」
 槙は形のいい唇を少し突き出して、こちらを見た。よく見ると、素肌には少しそばかすがあって、それもまた魅力的だった。
「私たちの思う、理想のサウナをこの国で探したいのよ。ないなら、ぜひ作りたい。男でも女でも、老若男女が自由になって、心身ともに解放されるサウナ。そして、人間同士が愛を感じられる場所」
 槙は、愛という言葉まで使い、そこまでを言い切った。
「それは、あったらいいけど」
「いいけど、じゃだめなの。作りたいの。私もこれまで、少しは新しいサウナの監修に携わってきたけど、サウナってね、あるものを用いれば自宅にだって簡単に作れるわりに、すべてお仕着せなわけ。ちょっとデザイン、材質に拘ろうとすると、とたんに障壁ができる。サウナメーカーは、あれはできない、これはできない、となる。公衆浴場法、消防法、都市計画法、建築基準法、いろいろ立ちはだかってくるから、安全面を考慮してなのもわかるけど、相談にものってくれない。それに、商業施設となると、もっと規制も多い。例えば、今現在は本当はこうして男女が一緒に入るのも、許可がおりない。男女は別で、外からも相互からも見えないようにしなくてはいけない」
 そうだったろうかと、思いを巡らす。
「男女が水着で入るサウナなら、それなりになかったですか?」
 道生自身も、サウナでデートするならここかな、と算段していた場所が幾つかあった。でも今は、サウナがデートの場に相応しいのかは、甚だ疑問だ。
「自治体によっても異なるけれど、宿泊施設が付随しているといいというところもある。理由がわからない」
 サウナに散々通いながら、法律や規制のことなど、道生は何も知らなかった。自分に興味のあることであっても、重箱の隅ばかり突いてしまうのは昔から自分の足りない部分であり、しかしだからと言ってこの年になると反省もしないでいる。槙はこちらを責めているわけではないはずだが、道生は少し気後れを感じた。
「理想とは、どんな風なんですか?」
 訊いてみた。
「イメージとしては、丹頂鶴なんだけど」
「はい?」
「目の前で、丹頂鶴が舞っているような生き物の気配のある場所に、広々したサウナがあって、地元の人たちも、そこを訪ねた人も、景色を見ながらサウナを日がな楽しめるような場所」
「地元の人もってところは、いいですね」
「でしょう?」
 槙が微笑んで、続けた。
「朝の光の中でも、星空の下でも気持ちよく汗が流せるところ。男も女も、そばにいても普通に感じられるところ。余計で過剰なサービスがないところ」
「それは、行ってみたいな」
「はい、よく言った、道生。じゃあ、決まり。チームの結成」
「丹頂鶴の話だけでチームですか? 槙先生」
「すでにそんな場所がどこかに存在するのかしないのかのリサーチも含めて、次回は二週間後、ここでまたサウナ・ミーティングしよう。ラインのスケジュール調整、碧子ちゃん、お願いね。自分に何ができるか。法律を調べるところも含めて、検討しよう。土地探しはどうするか? どこかにタイアップを頼むのかどうか。サウナのどんなところに拘りたいか。それぞれ、持ち寄る」
「OK、私、北海道のアウトドアに強いおじさん、知ってる」
 と、碧子は指で丸を作る。
「僕は、商社マンとして関われるのかどうかは、ここで即断はできませんが」
「道生ってわかってないよね。槙先生は、やると言ったことはやる人なの。もう、ちゃんと会社に根回しもしてあるよ。道生の上司には、話してあるって」
 碧子がわかったようなことを言う。
「根回しってほどじゃないけれど、帰って高梨課長に相談してみて。あの方、面白いわよね。実は最初はね、道生にじゃなく、課長に相談してみたのよ。そうしたら、杉山に声をかけてやってくれって。あいつは優柔不断なやつで、いまいち、なんでも宙ぶらりんだからって言っていた、かも」
「かもって」
 槙が悪びれもせずそう言うのを聞きながら、道生の悪口を言う高梨の得意気な顔を思い浮べ、辟易とする。
 また汗を大量に流したくなる。いや、誰にでも汗にして流したいものがあるんだ、と思う。槙や碧子にだって、自分にだってある。でも確かにこの頃は、サウナという場所を求める気持ちが、自分でも生真面目すぎるのだ。
「OK、課長に話してみるよ」
と、道生も碧子の真似をしてみた

 駅までの夜道を、碧子と歩いた。
 街の看板のネオンが光り、生ぬるい夜風が、心地よく肌を撫でていった。
「あのさ、あそこでは言わなかったけど、見たよ」
 道生は、胸にしまっておけずに吐き出してみる。
「何を?」
「碧子ってさ、ゴルフパパ活、してるでしょう?」
「なんだ、その話か。別に、言ってくれても全然、よかったのに。槙先生だって知ってるよ」
 と、ケロッとしている。
「じゃあ、言うけど、指名こないでしょう? あんなプロフィールじゃ」
「まあ、滅多に声はかからないね」
「特技の欄が開脚前転って、それはないよって思ったよ」
「だめかな。すごいんだけど、私の開脚前転」
 そう言われると、急に立派な特技のようにも思えてきた。
「槙先生はなんて言ってた?」
 二人とも、歩調はゆっくりだった。
「特に何も。道生は嫌なんだ? なんで?」
 なぜ嫌か? と問われ、しばし考える。自分だって、モテないのだし、それも出会いの機会なのは確か。巡り巡って、そこで碧子と出会った可能性だってあるし、そこで出会っても碧子はきっとこのままなのだろう。
「まあ、俺の考え方がもう古いんだろうけど」
 碧子は、ふうんと鼻を鳴らした。
「私、一生懸命、生きてるから」
「一生懸命生きるって、何を?」
「それで、わからない人には言いたくないよ。どんなチャンスも可能性も、私はいつも探してる。若いという時間だって無駄にできないもん」
 清々しくそう言い切った碧子と、はじめて会った時に、ホテルの夜食を食べないと言っただけでずいぶん責められたのを思い出した。今時、そんな風にあからさまに貪欲な子がいるのだなと思うと新鮮ではあった。
「槙先生も、本当は結構、そういう人なんだと思うよ。子どもの頃に、なぜなのかは知らないけど、苦労されたって言ってたよ。それでとりあえず医者になったけど、本来は医者に向いていない気がするんだって。手術とか、苦しんでいる患者さんを目の前にするのも。それで、サウナの効用に行きあたったみたい。ドクターとして向き合ってる」
 不意に、槙が丹頂鶴を口にした時の、はにかんだような微笑みを思い出した。
「槙先生、理想のサウナのこと、急いでいるみたいなんだ」
「そうか」
「ねえ、ちゃんと聞いてる? 道生を見ていると、なんでも余裕綽々な感じでいらいらするけど」
「それは、失礼しました。怒るなよ。飲み直そうか?」
「嫌だよ。だって、道生、私を選んでくれなかったもん」
 碧子はそう言って赤い舌先を出す。次回のサウナ・ミーティングでの再会を約束し、駅で、互いに小さく手を振った。

 私、一生懸命、生きてるからーー。
 そう言い切った碧子を改めて、電車でつり革につかまりながら、揺られながら思い返していた。
 槙が思い描いている場所からも、サウナの解放感を通り越して、極北とも言えるイメージが伝わった。北の寒い地に飛来してくる丹頂鶴や、その地で懸命に生きている人や、そこにやってきた人が集う場所に、サウナ。ただ、汗を振り絞るための場所じゃない、何かを探しているように感じた。
 彼女は、セレブリティ相手に仕事をしている人だと思っていたので、槙が口にした言葉の中で、もっと印象的だったのは、地元の人も、という点だった。
 高梨課長がどんな調子のいい返事をしたのかは知らないが、そうなると逆に、商社が絡むのは難しいように思えたが、道生個人はとても惹かれていた。

 いつものように、カオリの店に立ち寄る。今日のカウンターは、とび石のごとく席が埋まっており、角席に座る。ハイボールを待つ間に、カウンターでスマフォを操作して、「サウナ」「湖」「野外」などの検索キーワードを入れてみた。
〈湖のほとりの天国サウナ〉〈百度のサウナと氷点下の外気浴〉〈山の伏流水でセルフ・ロウリュ〉〈まずは、鹿と入浴から〉なんていう謳い文句も次々出てきた。今や、アウトドアサウナは、こんなことになっていたか。
 日本の名だたる湖の周囲には、サウナがちりばめられているかのようだ。テント式が多いが、テントで常設というスタイルもある。なのに、やたらとサービスも多そうだ。
 北海道の紹介を選ぶと、流石に写真が雄大だ。湖面は青く、その向こうに形のいい雪山なんて、もはや珍しくもないらしい。
 ハイボールが来るまでだけでも、こんなに多種多様に行き当たるのだから、槙の探しているような理想のサウナはもう存在するのではないかとも思ったが、彼女のことだから、こんな検索くらいはとっくにしているに違いなかった。
「はい、どうぞ」
 小さな豆皿にのった塩豆も、ここのは美味しい。
「何か、探しものですか? 今日も出会いがあったのかしら」
「いや、出会いで言うなら相変わらずフラれたも同然なんだけど、ちょっと宿題が残ってね。それが、丹頂鶴」
 カオリにそう答えると、
「あら、それは面白い話かも」
 と、カオリは言って、ウエスでカウンターを拭っている。
「うちの店に最近、よく来てくれるお客さんね、まだ学生さんなんだけど、なんでも大自然の中で生まれて、丹頂鶴を見て育ったって」
「本当に? そんな人がいるんだね」
「今日あたり、ふらりと来そうな気がするから、そうしたら紹介しますね。確か、湿原のある村の村長さんのお嬢さんだったはず」
 幾人かの客が出入りし、そのふらりを期待したが、そろそろ帰ろうかと会計を頼もうとしていた時だった。
 学生というには大人びた、長い黒髪の、ノースリーブのカットソーを着た女性が、入り口に立っていた。
「いいですか?」
 静かな話し声だった。
「ほらね、噂をすれば、美結さん。こちらは道生さん」
「噂って、なんですか?」
 そう言うなり、頬のすっきりとした大人びた横顔で道生の一つ離れた席に座り、細い指で煙草に火をつけた。
「失礼します」
 このバーは喫煙が可能で、だから立ち寄る客も多い。煙草は道生にも何の問題もないが、ひと言そう言ってくれると、気持ちはいい。
「丹頂鶴の話になってね、丹頂鶴に会いたいんでしょ? 道生さん」
「私の話、カオリさん、覚えていてくれたんですね?」
 首筋から繋がる贅肉のないきれいな胸をはって、長い手をしなやかに動かしていた。彼女自身が丹頂鶴のようだった。
「だって、鶴の求愛の声を真似してくれたでしょう? あれ、可愛かったな」
 道生は目の前の静かな彼女の発した声を想像すると急に、どきりとして赤面していた。
「それでなぜ、丹頂鶴に会いたいんですか? こんな、暑い時期に」
 黒々とした神秘的な目で、こちらを見つめてきた。

第七話に続く